四月中旬から男のお子さんがいるお家やお店で兜の飾りや鎧の飾りを目にするかと思います。また、様々な地域では、沢山のこいのぼりを泳がす所もあります。
初節句を迎えられるご家族の方は、どういった飾りにしようか悩まれている事かと思います。その為、今回は、選ぶポイントとして人気な戦国武将を通してご紹介して行きます。楽しんで頂ければ幸です。
戦国武将のご紹介!
伊達政宗
伊達政宗は、出羽国と陸奥国の戦国大名である17代当主です。彼の兜は「三日月型の鍬形」が特徴的です。彼の兜の鍬形が「三日月型」になったのは大きく分けて2つの理由があると言われています。
1.「妙見信仰による影響」です。妙見信仰とは、仏教の宗派の一つ「道教」のことで、特に北極星・北斗七星に対する信仰を指します。道教では、星や月、太陽を神として崇める慣習があり、「星」「月」「太陽」それぞれ信仰する対象によって宗派が異なります。彼は「月派」に属していたため、鍬形に月が選ばれ他のです。また、月の中でも三日月を選んだのは、シルエットの好みと戦時に刀の邪魔にならないためだと言われています。
2.「秀吉に気に入ってもらうため」です。伊達政宗は、故郷東北から天下統一を狙って領土を広げていましたが、当時西側から勢力を拡大していた豊臣秀吉から臣従申請が届いたため秀吉の家臣となり、彼の天下統一の夢は儚くも崩れます。
伊達政宗の兜は、三日月型が特徴とされています。
真田幸村
真田幸村は、大阪冬の陣で活躍し、「日本一の兵」とも讃えられた、戦国時代を代表する武将です。彼の兜は「鹿の角」と「六文銭」があしらわれてあります。
彼が鍬形として「鹿の角」を選んだのは、鹿が古くから神の使いとして大切にされてきたからだといわれています。鹿が神の使いといわれるようになったのは、険しい山道を颯爽と駆け抜ける姿が神秘的な力を持つように見えたことからです。
また、前立てとして「六文銭」を選んだのは、戦死に対する覚悟の表明のためだといわれています。そもそも「六文銭」とは、納棺の際に死後の平安を祈るために「三途の川の渡し賃」として棺に六銭投げ込む慣習から生まれたもので、彼は六文銭を兜に描くことで兵士に対する意思表明を行なっていたと考えられています。
真田幸村の兜は、鹿の角と六文銭が特徴とされています。
上杉謙信
上杉謙信は、生涯で70回の戦に出陣し、うち敗北が2回のみという勝率の高さから「軍神」とも呼ばれています。彼の兜は太陽を表す「日輪」と「三日月」の鍬形があしらわれています。
彼が鍬形として「日輪」と「三日月」を選んだのは「妙見信仰」による影響を受けたためだと言われています。彼は仏教に対する信仰が厚かったことから、妙見信仰の中でも「月」「太陽」の両者を信仰していたことから兜の鍬形として「日輪」と「三日月」の両方が設置されたと考えられています。
上杉謙信の兜は、日輪と三日月が特徴とされています。
織田信長
織田信長は、「楽市楽座」や「関所の廃止」など斬新な発想に基づく改革を積極的に行なった戦国武将です。彼の兜は家紋である「木瓜紋」と「御簾」があしらわれています。
「木瓜紋」は、地上の鳥の巣を表しており、鳥の巣から卵が孵化し小鳥たちが飛び立つことから子孫の反映を意味しています。また、「御簾」とは宮殿や寺院で用いられる「すだれ」のことで、神の御加護に対する期待が込められています。
織田信長の兜は、木瓜紋と御簾が特徴とされています。
徳川家康
徳川家康は、戦いにも勝利し、天下を取った何があっても最後まで突き進むというイメージがあります。徳川300年の歴史にまでなりますから、その基盤を作った子孫繁栄といったイメージもあります。兜には、繁栄と長寿の対象であるシダの葉をあしらわれています。江戸幕府を開くきっかけとなった関が原の戦いで身に着けていた鎧兜は縁起がいいとして扱われます。
徳川家康の兜は、シダの葉が特徴とされています。
武田信玄
武田信玄は、疫病で亡くなったとされていますが、「自分が死んだことを隠せ」と言ったといわれています。息子の勝頼の力を信じていなかったことから、自分が死んだとなれば敵の士気も高まってしまうと考えたそうです。そのため、死んだことは隠して戦い続けて欲しいと思っていたそうです。戦いの強さを言われる武田信玄ですが、死ぬ間際まで戦いに勝つことを考えていたのです。兜には赤い鬼の顔や鹿の角をあしらわれています。また、ハグマの白毛をイメージした白毛が施されています。
武田信玄の兜は、赤い鬼の顔や鹿の角が特徴とされています。
戦国武将の五月人形をみて
様々な戦国武将の生い立ちや考え方、兜の特徴をあげています。五月人形を選ばれる際には、参考にしていただければと思います。
素敵な初節句になることを願っております。